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田中紀子『農聖 石川理紀之助の生涯』

農業経済学の故・佐藤常雄先生は秋田のご出身で、授業中この人のことを紹介してくれた。

とにかく真面目の権化のような人だ。秋田の山田村の農家で、明治初期に請われて秋田県庁に奉職しているのだが、そのときの通勤は徒歩で片道六里半!(もちろん徒歩)。言うまでもなく一里は4キロだから六里半は26キロ。これを東海道に例えると、東京・丸の内に出勤するのにこの人は毎日(毎日だよ)JR東神奈川駅の付近から歩いていることになる。しかも舗装された平地でなく起伏のある昔の道だからもっと悪条件だ。時速6キロでスタスタと休みなく歩いたとしても、所要4時間20分。朝8時に登庁するには3時半には家を出なければならないし、午後5時に定時に退庁したとしても、家に着くのは9時半である…。

羽後国秋田郡金足村に江戸末期に生まれ、大正初年になくなったいわゆる「老農」で、斜陽だった養家の石川家を再興したのを手始めに、勤勉と工夫と有志の力で農業・農村の発展を図った人物である。
その特徴的なのは「早起き政策」。夜はなるべく早く寝て、自身は午前2時ころに起き、3時になると板を叩いて村人を起こして回った。「どんな貧農も勤勉で立ち直る」(この言葉はこの本にはないが、理紀之助の言葉と伝わる)という信条で、多くの荒廃した農村を復興した。その生活習慣は村人にも定着し、鹿児島の復興した村から出発する時は送別会を「小学校の時間に差し障りがないように」午前3時に開いている。

この本の中で、理紀之助が秋田県庁時代に登用・師事した秋田県の四老農の話が出てくるが、彼らに共通しているのは勉強熱心なことと、奉仕する精神だ。理紀之助は分家の出身で、本家に嘱望されて入り婿したが、本家の棟梁となると学問する時間が取れず、結局飛び出している。朝に勉強する習慣も昼は農作業で忙殺されるために少年時代に編み出したことであった。これを「暁学」といった。
「農家に学問は入らない」と昔は子供を学校に通わせたのを嫌がったようだが、この時代にあってもそれは間違いである。いわんや複雑な現代社会においてをや。

この本は理紀之助の生涯を俯瞰する上でちょっと物足りないところもあり、中には年号の間違い(明治28年の話がいつのまにか明治27年になってる、とか)もあるのだが、素朴ではあるが理紀之助の生涯の簡潔な紹介となっている。

「どんな貧農も勤勉で立ち直る」。100年来の大不況といわれる今、この言葉を噛みしめてみたいと思う。

最後に、言わずもがなかも知れないが、理紀之助が明治21年に上京して農商務省で農家経済の方策を講演したとき発表した「教訓十四か条」をご紹介しておこう。

1.寝ていて人を起す事なかれ
2.遠国の事を学ぶにはまず自国の事を知れ
3.資金を力にして興す産は敗れ易し
4.金満家の息子は、多く農家の権利を知らず
5.経済は唯だ金銀を沢山持つ事に非ず
6.勧業の良結果は、多く促成を要せず
7.農家にして蓄財を望まば耕地に貸付けて利を取れ
8.樹木は先祖より借りて、子孫に返すものと知れ
9.人力のみにて成熟するものは、永久の産とならず
10.子孫の繁栄を思はば、草木を培養する事を以て知れ
11.国の経済を考えて、家の経済を行へ
12.豊年にも大凶あり、気をつけて見よ
13.金銭は濫りに集める事は易くして、能く使う事は難し
14.僥倖の利益は、永久の宝にあらず

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